ジョン万次郎は、中浜万次郎ともいわれ、土佐清水市中浜の漁師の子であった。 天保12年(1841)、ジョン万次郎は14歳の時、足摺岬でのアジ、サバ漁中に漂流(10日間)九死に一生を得て、南海の孤島(鳥島)に漂着、わずかな留水と海草、海鳥を食して143日間も生きながらえる。そして漂流しているところを、米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号に奇跡的に救出された。献身的に仕事をこなし英語にも興味を覚えた万次郎を気に入ったホイットフィールド船長は「ジョン=ハウランド号」の名前をとって、ジョン=マンというニックネームをつける。そしてジョン万次郎は日本人として初めて米国大陸(フェアーヘブン)に上陸した。そこでホイットフィールド船長の保護を受け学校教育を受け、英語、数学、測量、航海、造船等の教育を受ける。日本人留学生の第一号だった。その後、ジョン=ハウランド号の仲間から声をかけられ、3年4ヶ月にわたって世界一周する捕鯨船「フランクリン号」の副船長として活躍した。 帰国後は土佐藩の士分に取り立てられ、高知城下の藩校「教授館」の教授となる。この頃は土佐藩より「他国往来は勿論、海上業等被差留之」と申し渡され、故郷から外へ出ることを禁じられてしまっていたが、ジョン万次郎が藩校の教授となってアメリカの文化、世界の海での冒険を語り、坂本龍馬らに大きな影響を与えた。 その後、老中首席阿部伊勢守からの召喚状が土佐藩の万次郎に届き、江川太郎左衛門の手附(秘書位)を拝命に、ご普請役格としての「幕府直参」となる。 この時、生れ故郷の地名を苗字として「中浜万次郎」を名のる。 その後、外国通信の翻訳や軍艦操練所の教授として活躍した。また遣米使節の通訳として再び米国に渡る。帰国後は1866年に薩摩藩の開成所教授となり、航海、造船、測量、英語を教授する。1869年には明治政府の命を受け、開成学校(現東京大学)の徴士(二等教授)となり明治3年には、中博士(教授)となって、最高学府の教壇に立つ。 1870年には普仏戦争視察の一員として、ヨーロッパ出張し、ロンドンから帰って間もなく、軽い脳溢血を起して倒れ、この後は静かな晩年を送る。1898年に東京京橋弓町長男中浜東一郎医博(岡山医学校教授)宅で71才の生涯を終える。 現在、ジョン万次郎の縁でアメリカ合衆国マサチューセッツ州フェアーヘブンとニューベットフォード、沖縄県豊見城市の3都市が姉妹都市盟約を締結している。 |